2022/08/18 08:35
長いこと電車に揺られてあの町へ向かった
車中からの景色をぼんやり眺めながら
微弱信号のような子ども達の悲しみが
私の心に低い周波数を発しながら届けられていた
それはまるでライブの開始直前に暗闇の中でベーシストが発する重低音
もうすぐライブが始まるワクワク感と
これから子供たちに会える喜び
低い周波数と高揚感の不協和音が
ライブ会場に向かっていた当時の心境を思い起こさせ
緊張感と気合が入り混じる
満員の車内を見渡すと私以外の全員がマスクで覆われた顔でうつむき
手元の小さな画面を無表情で操作していた
きっと私がマスクをしていないことに気付いている人なんて居ないんだろうな
そんなことを考えながらあの町に着いた頃にはすっかり日が暮れていた
駅裏では息子の彼女 ( 以下りえちゃん ) が助手席に ( 私の ) 娘を乗せて
私に手を振ってくれた
レストランへ入ることにした
偶然居合わせた娘の中学時代の同級生が嬉しそうに私に会釈をした
そんな些細なことが私に「この町に来て良かった」と思わせ心を温めた
息子と前夫の暴力沙汰を目の当たりにしてしまったりえちゃんは
注文を終えるや否や息子に対するこれまでの不満を語り始めた
事件の翌日のパーティー会場で息子がりえちゃんに対してキレたことが
今夜の引き金になっているようだ
機嫌を損ねた時の息子の態度は
前夫が私へ向けてきた冷たい仕打ちとよく似ていて
まるで息子が前夫と私の険悪な関係を見ながら育ってきた "心の傷 " を
りえちゃんに向けて再現することで癒しているかのようだった
娘と私で りえちゃんの息子への悩みを聞く思いもよらぬ展開となった
前夫の両親の関係も 離婚前の前夫と私の関係によく似ていた
義父は家族が揃うとはじめのうちは上機嫌で酒を飲むが
ひとつ気に入らないことがあると暴れ出し
義母や息子に手をあげてはその場を台無しにしてきた
そんな義父も孫に諭されると比較的自制心が働くようで
義母は酒の席には必ず孫を座らせるようになっていて
高校生時代の息子はよく前夫に連れ出されては上手くそのお役目を果たし
義母に可愛がられは小遣いを与えられ
前夫が頻繁に実家へ行く度に同行するようになっていた
息子が大学に進学した頃には
中学生の頃からの夢を一切口にしなくなっていた
生前の義母から聞いたところによると
どうやら義父も当たり前のように両親の DV を見て育ったようだった
彼らは戦争経験で心に深い傷を負っていた
生前の義母をサポートしてきた娘は
時に兄への不満を漏らしながらりえちゃんの話に頷き慰めの言葉をかけた
私はりえちゃんに今だからこそ穏やかに話すことができた
代々続いた虐待の連鎖を前夫の代で止めたかったこと
そのために20年間がんばって前夫に向き合ったこと
だけど止められなかったこと
だけど
本当は前夫も深い傷を心に抱えていること
りえちゃん
前夫の代では止められなかったけど
息子の代では止めたいんだ
前夫とはだめだったけどね
私がんばるよ
約束するよ
だからりえちゃんはがんばりすぎないで
自分の心を優先させて
自分を大切にして
息子と一緒に居ることが辛くなったら無理しないで
りえちゃんはりえちゃんの父もまた暴力的だったこと
悲しむ母に寄り添ってきたこと
お兄さんが実家と疎遠なこと
そして息子を愛していることを話してくれた
レストランをあとにして
娘とふたりでホテルへ着いて間もなく
バイトを終えた息子とロビーで合流した
息子も前夫に関してはひと言だけ「俺からは絶対に謝らない」と言うと
りえちゃんの話を優先させた
息子と娘は母である私が家を出てからというもの
ふたりで父に向き合いながらきようだいの絆を深めていて
同時に私に労いの言葉をかけてくれるまでに成長していた
そんな息子と娘の会話を傍らで聞いていた
ふたりはりえちゃんのことで真剣に話し合っていて
娘はしっかりと中立の立場を通し
ひとりの女性としての意見を堂々と息子へ述べる娘の姿から
数々の苦労を乗り越えた先に獲得した軸を垣間見た
息子もまた自分は義父や前夫からの影響を深く受けていること
酒を飲むと脳機能が弱まり大きくなることは自覚していること
( 前夫との事件で ) 暴力的な訴えがどれだけ相手を傷つけるか理解したこと
これからは言葉遣いも優しくしたいことを語った
息子の言葉に娘も大きく頷いていた
ふたりとも所々で前夫との事件を持ち出し
自分達なりに消化しているようだった
このことを私は「私が来た甲斐があった」のだと思いたかったものだが
実際のところは息子と娘を愛してくれているりえちゃんや友人や親戚が
事件後からふたりの傷を癒してくれていて
私の存在は最早 ” ふたりを愛する人達のうちのひとり " に過ぎなかった
ふたりはちゃんと成長していた
ふたりはちゃんと
親離れしていた
翌朝息子とりえちゃんの住む家へ娘と初めておじゃました
りえちゃんは仕事で留守だった ( 事前におじゃますることは伝えていた )
息子は無邪気に喜んで家の間取りを見せてくれたり
友達とやっているネットショップの在庫を見せてくれたりした
売却する実家から持ち出された息子のお気に入りの家具や雑貨が並べられたその部屋は
若いカップルの新鮮な愛に溢れていた
まだまだ子ども達と一緒にいたかったけど
帰らなければならない時間が近づいていた
ヨシュアさんが
「帰るよ~」とささやいた
寂しげな顔は見せまい!
満面の笑顔でバイバイをして
雨に濡れた道をひとりで歩いた
「またひとりになっちゃった」
こんな時はついついそんな風に思ってしまって
ヨシュアさんやガイドさん達をがっかりさせちゃうね
そんなふうに思考をぐるぐる廻らす私をヨシュアさんは黙って見ていた
帰りの電車の車窓から
駅のホームを急ぐ人々を眺めていた
みんな一生懸命に生きている
マスクしながら笑ってる
雨が上がって晴れ間が見えてきた
あぁ 子ども達がちゃんと成長してくれていて本当に良かった
私もがんばろう!
ヨシュアさん 私がんばるよ!
でも
何だろう
何か心に引っかかる
何だろう
私がやんなきゃいけないことがまだある
あ
わかった
私は短いメールを打ち終えると
ヨシュアさんに聞いてみた
「これ 送っちゃってもいいかな」
返事は無かった
送信ボタンに親指を乗せて
送信を躊躇していると
ガイドさん一同の
「押~せ 押~せ」コールが聞こえてくるかのようだった
一思いに送信ボタンを押した
メールは離婚後初めて 前夫へ宛てたものだった
『 子ども達のこと、愛情もって育ててくれてありがとう
子ども達のこと、これからもよろしくね! 幸せになってね 』
大事な何かを思い出した
私は 私はちゃんと
家族を愛していたし 愛されていた
泣きじゃくる私を
頬杖ついたヨシュアさんが笑顔で見ていた
その夜 前夫から一通の返信が届いた
『 心配かけて申し訳ない
子供達はちゃんと責任もってやるから心配しなくていいよ
からだに気をつけな! 』